死に対して誠実に向き合う

新年早々から少々重いエントリーかもしれません。まぁ、このサイトを覗きに来る方は、浮世の喧騒から離れて生きてもいける方が多いと思いますので大丈夫でしょう。

仕事っぽいブログで「将来に対して誠実に向き合う」という記事を書いています。一分ぐらいで読めると思いますので、まずはそちらをお読みください。

特別なことは書いていません。この記事をもう少し深める事にします。

何度も書いているように「存在それ自体は見ることも語ることもできません」ただ体験があるのみです。先の記事にある、「新鮮に出会う」とはまさに「その事」を表現したかったのです。

再現不可能な「一瞬をつなぎ合わせた永遠」を感覚できれば最高でしょう?周囲からは何も違和感無く、普通に生きてると見えることでしょう。しかし、当人は「どの瞬間も2度と訪れる事がないのだ」という強烈な自覚があります。「それを体験している」と云ってもよいでしょう。

あなたが、今年の夏に死ぬとわかっていたら、

「春の桜を眺める体験は去年と全く違うはず」

この想像は難しくないでしょう?

目の前の人と二度と会えないとしたら、どんな接し方をしますか?

おそらく「あふれんばかりの愛で包み込むことでしょう!!」

賑やかなマインドに翻弄されることなく、ただひたすら「新鮮な体験を続ける」のです。

そのための唯一の条件は「死に対して誠実に向き合う」だけです。どの一瞬も死につつあるのです。この感覚を持たない限り「それ」を体験することは不可能でしょう。

私は、好奇心が旺盛です。興味の範囲は無限に拡がっていると感じます。もちろんこのことは生活する上で役に立ちます。そして、いつも「次に何が起きるんだろう?」とワクワクしています。

人生を「死ぬ瞬間のために準備される時間」と定義したら、「最高のクライマックス」を演出したと思いませんか?観客はもちろん一般的に云う自分自身です。ワクワクしながら「その瞬間に立ち会いたい」と思いませんか?

そのために、いつも「死と向き合い、誠実に付き合う必要があります」

「存在」と分離して生きてると死に対して恐怖だとか、不安が支配します。というり、そう感じるように「洗脳」されているのです。幼児に死はありません、昨日もなければ明日もありません、「いま、ここ」だけが存在します。もちろん「自己」という概念がありません。「自己」を作り上げた(手に入れた)とたんに「存在」と分離してしまいます。

だから、死と誠実に向き合うとは、自己を消滅させる事に他ならないのです。

いつの日か私の肉体は朽ち果てることでしょう。しかし私そのものが存在なら「そのまま」です。自己を消滅させる、即ちマインドを見つめる事で可能です。

純粋で無垢な「あなた自身」をマインドに乗っ取られてはいけません。

純粋で無垢な「あなた自身」はとてもパワフルに輝いています。

純粋で無垢な「あなた自身」はいま、ここに在るだけで十分です。

そろそろ、存在から分離したちっぽけなエゴと付き合うのはやめて、存在そのものに帰りましょう!忘れてしまっている「それ」を思い出すだけでOKです。

ではでは、どうか素晴らしい時を、輝く時を楽しんでください。最高のクライマックスに向けて。。。

しばらく、記事を書いていなかったので少々長くなりました。今年も気まぐれで書いていきます。関心があればお立ち寄りください。廃人になるかもしれませんが(爆)

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くつろぐ・寛ぐ・Relax

一人でいる時はマインドのごちゃごちゃに付き合わなければ、比較的寛ぎやすいです。誰かが見れば「ぼぉー」っとしてるように見えるだけかも知れません。

では、誰かと一緒にいる時に寛ぐのはどうでしょう?意外と難しいかも知れませんね?複数人なら更に賑やかに「マインドが活動します」それでも寛ぐ方法があります。

まずは簡単な方から

もし、あなたが寛いでいたければ他人を変えようしないこと!

この一言につきます。逆を考えればすぐに分かります。誰かがあなを変えようと迫ってきたら「寛いで居られますか?」嫌でしょう。多分必死に抵抗します。「もちろんマインドのお仕事」です。これでは寛ぐどころではありません。だから、他人を決して変えようとしないことです。

多少の意見の食い違いや価値観の違いが在るのは当然です。人にはそれぞれのマインドがセットアップされています。工業製品のように規格化されているわけではなく、すべてがカスタムメイドです。だから、あなたのマインドの規格はあなただけのものです。

そして寛いで、静かに居たいなら「自分のマインド」だけを眺めて反応を楽しんでいれば良いのです。「マインドの規格が違うのだなぁ…」程度にね。決して相手のマインドに立ち入らないことです。

で、少々難しいかも知れない方法

マインドから離れること!

誰かと一緒にいるなら(相手が複数人でも一人でも)、「自分も含めて眺めている」感じです。そうすることで、「場のエネルギーを感じ取ること」ができます。無言のコミュケーションも含め、とても寛いでいる時間になることでしょう。

余談ですが、私の本業の表現で言えば、第三の位置って言います。聴衆の前でスピーチする様な場面を想像して下さい。第一の位置はもちろん自分の位置からの発言、第二は聞き手の位置に身を置きながらの発言、そして第三の位置は会場全体=場を「スピーチしている自分をも含めて、眺めながら話している」状態です。この第三の位置の時は多くの場合、その場にとって最も有益な機会となるような話しになってしまいます。ほとんどマインドは機能せず、勝手に話してる感じすらあります。

そして、特別な2人っきりで寛ぐなら、

おくちの恋人ですw

最後のはまぁ、適当に楽しんで下さい。

くつろげない二人なら、わかれましょう(笑)

ではでは、

Enjoy meditation!!

 

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悟り・さとり・ SATORI

悟ったとか、悟りを開くと言ったりします。悟ると一体どうなるの?

どんな状態なのか「知りたい」でしょう?この知りたい「欲」が実はクセモノですね。悟りは「忘我」です。

で我を忘れるって皆さんも日常的に「体験してる」はずです。ただし、その時間が短かったり、あるいは気がつかなかったりと「見逃している」のです。別な言い方をすれば「夢中」に近いかも知れません。あるいは「時の経つのを忘れる」感じです。何となくわかりますか?

このような状態になる時(なった時)を経験してるでしょう?

「先」のことにも「さっき」のことにも関心がなく、只々、その瞬間を生きてるかんじです。もちろん不安や恐怖なんてありません。そして、後悔も反省もありません。良かったとか悪かったという評価もありません。つまり、一切の「思考がが消え失せ唯ある」だけです。それでいて「充足感・安心感」などの表現にちかい「夢中だった時」が「あとになって実感としてわかる

で、「楽しかった」となるわけです。この瞬間から「いつものマインド・ゲーム」がはじまり、現実に「戻り」、いつもの状態=慣れ親しんだ状態に「戻る」わけです。

そして、

  • 何かいいことないかな?
  • 何か面白いことないかな?…

ってね。

悟っても、おそらく多くの人には現実・現象は何もかわりません、しかし、この慣れしたんだ状態が「マインド・ゲーム」だという自覚があり続けます。だからこそ、この慣れ親しんだ状態が「夢」であり、夢中になって、「忘我」の状態こそが「それ」だと自覚できるのです。要するに「夢と現(うつつ)」が逆転する感じと表現しても良いでしょう。

 「先」のことにも「さっき」のことにも関心がなく、只々、その瞬間を生きてるかんじです。もちろん不安や恐怖なんてありません。そして、後悔も反省もありません。良かったとか悪かったという評価もありません。つまり、一切の「思考がが消え失せ唯ある」だけです。それでいて「充足感・安心感」などの表現にちかい「夢中だった時」が「あとになって実感としてわかる」 この出来事そのものを観照し、静かに受け入れて、次の「唯ある状態への変化」を繰り返す感じです。

まぁ、説明するとこんな感じですけど、「実感を伴う体験」がないと「わかった気になるだけ」かも知れませんね。このブログで何度も書いてますが「言葉では説明不能」、だから、こんな周りくどい書き方になります。「一瞬で全て」了解できるのにね…

悟れば、「夢と現の逆転そのものが消滅します」

四六時中「夢」と言ってもいいし、「現」と言っても良いのです。

瞑想しましょう

ではでは、

Enjoy meditation!!

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おくちの恋人(笑)

「お口の恋人○ッテ」菓子メーカーのコピーとして良くできていますね。では「身体の恋人」といったらどうでしょう?興味ありますか?今回の記事はちょっとアダルトな内容かも?って、そもそもアドルトってなんだ?まぁ、細かいことは置いといて、早速本題に入ります。

性を商品とする風俗産業があります。もちろん関連する商品やサービスも、もの凄く多いです。映像にしてもショウにしても施設にしてもグッズにしても先進国ならおよそ「マインドが考えつく、ありとあらゆる商品やサービスがある」でしょう?どちらかと言えば男性が客で女性が商品というのが一般的ですが、逆もたくさんあります。

本来、sexは「頭(マインド)がする」ものではなく、「身体(ボディ)がする」のです。もう少し厳密に言えば「身体に起きる」と言ってもよいでしょう。

だから、大いなる「飛躍」が起き、「それ」に出会うチャンスがあります。sexは「純粋」で「シンプル」で最も「安心」できる瞑想です。ただし、残念なことに愚かな人達によって「銭儲けのテーマ」になっています。

マインドでsexするとスポーツに近くなります、上手くなるとか技を磨くとか、または道具に凝ってしまうとかw、更には観客だとかチームプレイだとか(爆)アブノーマルなゲームです。まんまと銭儲けに洗脳されているわけです。爽快感程度は手に入るでしょうが、「それ」に近づくどころか、絶望的に「マインドの奴隷」に成り下がります。

ボディでのsexは男女一対(つまり2人)だけで、「くつろげる状態」です。外敵から身を守る必要があります。最も無防備な瞬間だからです。動物は快楽のためにsexはしません。それどころか命懸けですらあります。だからとても尊い行為です。

人間は少し違います。特に現在は「生活環境」が変化し、年間を通して「無防備になれます」要はいつでもsexできるということです。発情とは違います。発情だけなら動物と違いがありません。もう少し精妙な「感覚」です。だからこそ、「それ」の別称である「愛」が起こるのです。

愛は「それ」と同様 語ることができません。せいぜい「愛に触れるという体験」ができる程度です。語れば語るほどチープになるでしょう。sexであれば「2人が解け合う(トケアウ)」という表現が最も近いでしょう。だから、そこには「誰もいない」のです。「愛(=それ)」だけが存在します。

注意すべき点は

人生で一度でもこの体験をした人は「また、次も・・・」と「マインド型sex」になってしまうことです。こうなると「マンネリ化し、スポーツ」になってしまいます。それでも2人きりで無防備になるのはとても重要な瞬間です。だからお勧めしますw

2人で愛になるには

いつも新鮮な2人でいることです。「イマ、ココ、フタリ」であれば良いのです。一人で瞑想する時は「イマ、ココ、ワタシ」です。そして「ワタシ」が消えた時「それ」が起こります。同様に「愛が起こる」のは「フタリ」が消えた時です。身体に起きることを全て許可できるので一人で瞑想するより安堵感があります。マインドのブロックが外れる瞬間に安堵感があるのは素晴らしことです。(通常の瞑想ではワタシが消え失せる瞬間に恐怖感?みたいな感覚があります、特に初めて「それ」を経験する時は…)

私達はマインドフルな生活スタイルを余儀なくされています。

しかし、シンプル捉えれば「食う、寝る、やる+遊ぶ」で生き物としては完璧です。後は全てプラスαの要素であり「マインド・ゲーム」のテーマでしかありません。そのプラスαで苦悩したり、落ち込んだりするのは「どうなの?」って思いませんか?マインドを召使にしてしまえば全ての苦悩から解放され、もちろん山奥に住まなくてもOKです。マインドの奴隷になっていれば「恐怖や怯え、不安」といったネガティブな感情と一緒に生きなければなりません。たとえ山奥でもです。だから常に醒めていましょう。簡単なことです。「イマ・ココ」=「それ」です。

存在(全て)です。

Enjoy meditaition!!

 

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食べる

今日は食事についてちょっと書いておきます。

食事は楽しいひと時です。美味しくいただける時と体調が悪くもないのに何となく美味しくない時がありますね。仕事で嫌な事があったとか、誰かと喧嘩したとか。。。気分が宜しくない時はあまり美味しくないでしょう?

これっておかしくないですか?だって同じものを食べていながら美味しさが変わってるのです。実際はもしかしたら「味」なんてないのかも知れませんよ?子どもの頃から、「甘くて美味しいでしょう!」とか「〇〇で美味しいでしょう!」と刷り込まれてるだけだとしたら、上記の「気分」で美味しさが変わるの(味の感じが変わる)のは合点がいくのでは?

味表現は「甘い、辛い、塩っぱい、酸っぱい、苦い」に代表され、他はこれの混合表現です。もちろん食事には「嗅覚」も「触覚(歯ごたえ、舌触り、柔らかさ、硬さ、水分・・・)」も影響します。もの凄くたくさんの食材と調理方法があるのに対して「表現方法」が少ないのは、それ以外は「無い」(表現できない)からです。更に言えば、この味表現も「とってつけた」だけで実際には「無い」のかも?全部、マインドが作り出してるとしたらどうですか?(広告で旨いと宣伝されれば旨いと思うとか)

「美味しい」ってなんでしょう?食文化が違う国や地域の食べ物が「現地の人が美味しい」と言っても、我々には No thank you!! って感じわかりますよね?だから、思い込みです。

実際、思い込みは「そのまま身体に影響します」だから身体にとって良い食べ物とは食べる時の「良い思い込み」です。食事とは違いますが、「良薬は口に苦し」と言われます。苦いと効果がありそうでしょう(プラシーボ効果?)

私は菜食主義者ではありません、雑食です。ただし、肉や魚を食べる時も、思い込みで「野菜」だと思ってます、味も野菜です。おかしいですかね?いずれにせよ、それほど頻繁に肉や魚は食べません。(たんに年をとっただけ?)

私のおおよその食事は、朝はバナナとヨーグルトのみ、昼は付き合いが無ければ食べません。夜はご飯一膳におかずは無くても構いません(あればもちろん頂きます)。全体的に量は少なめでしょう。野菜や海藻、フルーツにナッツ、この程度で充分でしょうね。でも、楽しいひと時を過ごせるので、たくさん頂くときもあります(大体食い過ぎで気持ち悪くなります)ちなみに甘党です。お酒は飲みません。

多くの人は「食い過ぎ」に見えます。代謝が良ければまぁ、それもありかな?とは思いますが・・・昔、友人の医者が言ってました。「食の半分は医者のために食ってる」ってw つまり病気になるってことです。食べ過ぎには注意しましょう。

食べたい時が「食事の時間です」、お昼だから食べるとか、時間になったら食べるとか「時刻で食べるのは不自然です」

身体が欲しがってる時に欲しがってるものを食べるのです。決して頭が決めた時間に、頭が欲しがってるものを食べるのではありませんよ。

本当は食べなくても充分元気に生きていけます。水さえあればですけどw

ではでは、

Enjoy meditation!!

 

 

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